創業期ものがたり

The Founding Story

第12話

松葉に瓦

12月、2度目の“覚悟の家出”からシゲオは、しれっ~と家に戻りました。
そろそろ戻ってくる頃と、実は首を長くして待っていた両親は、嬉しそうにもせずシゲオには何も言わず、何も聞きません。
瓦製造は、炉の火入れ・火止め、いぶし工程などの作業の都合、目と手が離せない時間帯がバラバラで、もともと家族全員そろってご飯を食べる事はほとんどないものですから、シゲオはしれーっと家でご飯を食べ、店に出たり、瓦製造の現場で作業をし始めました。

そうして迎えた1946年正月、さすがに、炉の火も止めて正月休みに、父・俊次は、次男シゲオだけを座らせて、言いました。
「村でも、何人も徴兵されて戦死された若い衆がおられる中で、ワシら家族は、みんな無事で、こうして正月を迎えられとる。ワシら夫婦が田んぼと瓦を作って、今までなんとかやって来れたのは、この地のおかげさんや。商売はじめに、お寺さんに助けてもろうて、一帯の大地から土をもろうて瓦を作りよるし、山からは燃料の松葉を使わせてもらいよる。お前が、外へ出てやりたい事があるのはようわかるが、戦争で命を取られずにすんだ事に感謝して、この生業でここから社会に恩返しせい。」

そばに、母ちかもいて黙って聞いています。
シゲオも黙って拝聴し、静かに退散。
思う所は数々あれど、まあ、親の庇護を離れてトンチンカンな事をするより、進学は叶わなかったけど、親の敷いたレールで、人より早く、ひとはた上げる道を探すしかないわな~という結論に達しました。

それからは、商売の方で、俊次とちかは、監視的な立場になり、長男とシゲオで瓦屋の工場と店を仕切るようになりました。
長男は現場で、シゲオが家出中も、父・俊次の指示に従い、毎日コツコツ工場で同じ作業をまじめに繰り返しているタイプの人で、一方シゲオは、瓦づくりの現場で原料の混錬方法や、炉内の温度管理やいぶし工程のコツなど、“窯業“としての要領を押さえる傍ら、昼間は店にいる事も多く、帳簿管理、資金繰り、従業員の雇入れなど、1人でやっていました。
ですから、シゲオが店の資金繰りをするようになってからは、長男もシゲオも、給金という形で、毎月対価を得て蓄えるようになりました。
昼間、店にいることが多いと、“松岡瓦”と呼ばれていた俊次の店は、その当時、神崎郡田原村近くにいくつもあった瓦屋さんの旦那衆のたまり場になっていましたから、シゲオは好むと好まざるとに関わらず、色々な情報センターとか相談所みたいになる訳です。

まだ若輩のシゲオは、年上の先輩方から結構可愛がられるタイプで、その好奇心も相まって、新しい社会制度や、製造の知識、株や法律の事など、たくさんの事を教えてもらえました。
ある時は、相談事から始まって、この村で瓦組合を作ろう!という話になり、シゲオが(まだ未成年なのに)事務局長として、原材料仕入れの一括化や、万が一の互助制度を検討した事もありました。(目指したところは崇高でしたが、設立前に立ち消えになりました!)

そんな中で、(近くのどちらの瓦屋も看板もないような個人商店だったのですが)シゲオは、出資者を募って会社組織にすれば、銀行からお金を借りたり、設備投資したりして、従業員をたくさん雇える。
瓦屋も機械を使って、たくさんの従業員でやれば、もっとたくさん作れるだろうし、新しい住宅が建つ時に役に立つのに…。
という思いを強くしていきました。

それとは別に1946年10月のGHQの意向を取り入れた第2次農地改革が奏功し、1947年3月ごろまで、全国的に農地解放が進み、シゲオの住む兵庫県神崎郡田原村でも、小作だった農家の方々が農地を所有するという動きがあちこちで見受けられました。
俊次自身は庄屋の家系で、先祖伝来の田畑を田原村付近に所有していましたので、農地解放で土地所有することに積極的ではありませんでしたが、「これからは、それぞれの家で田畑や土地を所有する時代だな。」と実感するようになります。
三男坊の俊次でも親から田畑を譲り受け、そこで生活しているように、俊次の息子たちにも、その田畑を分け与えなければならないと考えたのです。

そこで、家と瓦の工場がある土地を長男に、シゲオには少し南側へ離れた船津村にある瓦の製品置き場として使っていた土地を譲ると、俊次は宣言しました。
1947年秋、長男もシゲオも三男もまだ成人していませんでしたので、登記などはしませんでしたが、17歳になって間もないシゲオは、父の土地譲渡宣言以来、着々と会社設立の構想を広めていきます。

折しも、近所の瓦屋の旦那衆との組合設立や会社設立について、我が事のように村の司法書士さんに相談し、法的な事を細かく質問し教えてもらっていたシゲオは、自分で瓦製造販売の会社を設立しようと思っていたのです。
いや、それだけでなく、その次の事も次の次の事もと、いろいろな事ができそうだ!と、その時既に構想はどんどんふくらんでいました。

こうして、準備万端整えたシゲオは、1949年2月24日、父から譲り受けた神崎郡船津村(現在の姫路市船津町)の地に、神崎製瓦合資会社を設立しました。
この頃、個人商店から会社組織に変更したり、新しく設立された会社形態として“合資会社”は斬新な感覚で受け止められていたようです。
また、父・俊次が始めた通称:松岡瓦と呼ばれていた個人経営店は長男がまじめに続けていく予定でしたので、俊次とも相談し、“松岡瓦”という名称は使わず、姫路城に献上の瓦として地元では誇りをもっていた“神崎瓦”の名を戴いた会社名としました。
松岡瓦産業株式会社の前身であります。

神崎製瓦合資会社(資本金180,000円) 業務内容:瓦の製造・販売
無限責任社員(株式会社で言う代表取締役):松岡俊次
有限責任社員(株式会社で言う取締役):松岡茂男・松岡ちか
設立登記当時、茂男はまだ18歳で未成年であった為、創業者である俊次に法的に社長として名を連ねてもらう事にしましたが、瓦を焼成する炉の設置をはじめ、事務所などにかかった資本金180,000円は、全て松岡茂男が工面し、茂男がたった1人で実質経営する組織がスタートしたのです。

法人に名を連ねた両親:俊次とちかは、“金は出さないが口は出す”というタイプで、競走馬みたいに突っ走る茂男を、傍目から何かと心配し、用心しなさいと、茂男にとっては口うるさく感じられる事もありました。
しかし、やはりこうして若輩ながら自ら会社を設立し、いろいろチェレンジして試行錯誤できるのも、両親の七光り。
進学できなくても這い上がるド根性を叩き込んで育てた両親のおかげ…。
ド根性だけで、自分1人だけでは、ここまで出来んわな~。
そんな事をしみじみ思うようになりました。

茂男が会社を設立した1949年頃でも既に、世の中の大きな会社は、みんな社章があり、社旗や看板、名刺にもそれが載っておりました。
自分の商売初めに「よし!ウチも社章っちゅうモンを作ったろ!」と思った時に、頭をよぎるのはやはり、俊次とちかの商売初め:まだ幼い自分たち兄弟はそっちのけで、窯から二人が、ススのついた瓦を大事に大事に1枚ずつ取り出し、ススを払い、服や顔がススだらけになっている光景でした。

歴史好きで近代歴史小説も読み漁り、財閥系の社章への憧れがあった茂男は、井桁のような形状の社章にしたいと思い、当時、瓦の焼成用の燃料に使用していた乾燥させた松葉を両親に見立てて掛け合わせ、中に瓦の文字を入れるデザインを考案しました。
…創立者:松岡茂男の回心の作であります。

以来、戦後の復興で住宅の新築や、とりわけ1950年9月に淡路・阪神地区に上陸したジェーン台風での被害で、屋根瓦は造っても造っても足りない状態で、茂男は順調に業績を伸ばしていくことができました。

1956年6月には、兵庫県神崎郡福崎町が合併に伴い、新制町長・町議会議員選挙があり、松岡俊次は初代町議会議員に選出されましたので、その頃から神崎製瓦合資会社の代表者を退き、松岡茂男が就任しております。
1961年には、瓦屋根施工を開始し、社名を松岡瓦産業合資会社とします。
その後、会社設立や吸収合併を経て2004年に、松岡瓦産業株式会社となりました。

昭和のはじめ、俊次とちかの2人で始めた“創業期ものがたり”は今、平成を超え、令和の時代にも、松岡瓦産業株式会社のむかし話として語り継がれています。
そして、創業の2人の姿を瞼に焼き付けた創立者が考案した社章:“松葉に瓦”は、多くの方々に助けられお世話になって今がある、松岡瓦産業株式会社の原点であります。

松岡瓦産業株式会社と共に、これからも皆様にご愛顧賜りますよう社員一同、お願い申し上げます。