創業期ものがたり

The Founding Story

第11話

配給米

福井駅に着いた時は、あたりはうす暗くなりつつある頃でした。
北陸の11月半ばの夕刻は、初めてやってきたシゲオにとっては、兵庫県神崎郡田原村の家より思った以上に風が冷たく寒く感じられます。
しかし寒い地域が故に、冬の本格的な寒さまでに少しでも復興を急ぐ人々に、街全体の活気と迫力があり、若干15歳の男子は、駅舎の人混みを出て、武者ぶるいと寒さでブルっとなりました。

寒い地域で冬を越すのだから…と、家を出る前、父・俊次の小マシな冬用の上着を無断で拝借して、福井までの道中、汚れるという想定で裏返しに着用していたのですが、まずは、ヨレヨレながらも表側に直して、自分ながらにきちんと着用し直しました。
そして、家の近所のおっちゃんから教わって自分で書いた“履歴書”を、大きなカバンからポケットにそっと入れ直し、混沌とした初めての地を、暗くなる前にどこか建設現場とか会社を見つけたい!と、歩き始めました。

ワクワクのような好奇心だけで、自然と川に向かって南の方向へ歩を進めていました。復員兵や闇市のような街の様子にも心配や不安など全くありません。
シゲオは「ビルや橋を作る大きな会社」を探していた訳ではありせん。
自分の力を試させてもらえる建設屋さんはないかなぁと、歩いていると10分もたたないくらいで、貨物トラックの「…建設工業」という部分が目に入りました。
「わっ!これだ!!」と、そちらの方向に行くと、前田建設工業とペンキで書かれたトラックが1台あり、入口付近には自転車の他に、オートバイも1台あります。
「ボクはここで働くんやな!と確信して、玄関を入ると、その時は、中に3人の男の人がいて、谷口さんという1人の男性が「ボク?何か用事か?」と対応してくれました。

兵庫県から1人で福井市の復興地で仕事がしたいと履歴書を持ってやってきた少年に、谷口さんは多少驚いたものの、その時、復興のための工事現場では人手は大歓迎な状況だったので、即面接・即採用となりました。
面接で、シゲオは両親は兵庫の田舎で田畑もあり瓦製造をしており、自分は次男坊で本当は裁判官になりたかったけど、進学の夢叶わず、戦後の焼け野原を知って、日本で橋やトンネルやビルを作る仕事をしたいと思った。
そんな時に福井市の復興計画を知り、福井で一人前になりたいとやって来た。
と、ここまでは正直に、持参した履歴書と共に説明。
すると、谷口さんは、差し出した書類に自筆で記入するよう指示します。

その書類は、労働者プロフィールで、両親の名前や実家の住所、最終学歴まで記入する必要がありました。
…シゲオ、ほぼ全て、臆することなくスラスラと記入しましたが、「最終学歴」のところで、たくさんの事を考え、0.5秒くらい手が止まります。
…小学校しか卒業していないけど、正直に書くと採用してもらえないよな~。でも“さいしゅうがくれき”という漢字も読めるし、意味も分かる。なんてったってボクは、姫路中学へも余裕で行けるくらいの学力はあるって、山口先生も言ってたし、そのへんの中学卒くらいの事は、自分で身につけてるしな~…
と、0.5秒の間、思いがかけめぐり、さすがに名門:姫路中学の名を書くのは遠慮して、姫路中学の近くにある「白鷺中学・卒」と、えーいっ!とウソを書いちゃったのです。
0.5秒の間も含め、終始シゲオの所作を見ていた谷口さんは、シゲオの受答え、持参の履歴書と同じくバランスのとれた文字の配列と、書類記入の速さを高く評価しており、「白鷺中学卒」は何か事情がある方便だろ! と見破っていました。
当時の義務教育制度は変更とか改正の連続で、当事者であった若者たちが翻弄された時代です。
生年月日からして15歳のシゲオが、11月時点で旧制中学を卒業しているとは考えられないからです。

それでも谷口さんは、シゲオの好奇心に満ちた黒い大きな目がキラキラ輝いているのに大きな潜在力を感じ、工事現場の作業員ではなく、現場管理職である自分の部下として採用する!と即答です。
30分ほどのやり取りの間に、外は暗くなり、事務所には次々と工事現場からの作業者のような人達が入っくる中、谷口さんは、そのうちの1人にシゲオを紹介して、その日の夕食と寝る場所を確保してくれ、翌日朝7時出社するようにシゲオに命じました。

朝から何も食べておらず、その日は駅舎とかどこかで野宿も覚悟していたシゲオにとっては思いもよらず、とても有難いことでした。
「この会社、どんな会社か知らんけど、食糧がない時に、ボクみたいな“よそモン”の若造にもちゃんと接してくれてや。ここで一生仕事しようって思うもん!」
と、その時、シゲオは「人を雇う」という事の大切な心得を学ぶのです。

翌日、7時に出社すると、シゲオは谷口さんの運転するオートバイの後ろに乗せてもらい、3か所の工事現場に移動し、同行しました。
当時としてはまだ見たこともなかったユンボやショベルのような建設機械が置いてあったり、道路整備工事の様子を目のあたりにして、シゲオはワクワクし、じっと黙って谷口さんが、現場の人と話す内容を聞きました。

それらが終わると、ひとまず事務所に戻り、シゲオの住む場所として事務所の隣接の小さな建物の4畳半の1室を指定されました。
家賃は不要でしたが、食事はもちろん自分で手当しなくてはなりません。
「とりあえず最初の賃金は1週間後なので、はやく配給米の手続きをとりなさい。それまでの飯は闇市で買うしかないよ。最初の給金日までは、私が出かける時について来なさい。それ以外は事務所で雑務なんでもやりなさい。」
「はい。よろしくお願いします。」と、元気いっぱい頭を下げたものの、シゲオが少々気になる事がひとつ!
「配給米の手続き??」

今の日本では想像もつきませんが、戦時中の食糧不足は、敗戦直後であった当時はさらに深刻化して、公務員ですら餓死者がいたほどで、主食であるコメは市町村が管轄する配給制でした。
一家に1冊、米穀(配給)通帳が配られ、1日あたりの米の配給量が記入されて米の取引自体を統制されていたのです。
そして米穀通帳は、今で言う運転免許証やマイナカードのような身分証明の役割もありました。

シゲオは、日ごろ自作農家の子として、戦時中も終戦後も食糧調達についてはさして気にしておらず、家から3000円という大金を持ち出していたので、福井で就職先さえ決まれば、自分1人食うことくらいは何とかなると高をくくっていたのです。
家を出る前に、履歴書についていろいろ教えてくれた近所のおっちゃんは、まさかシゲオが福井県で就職を考えているとは思いもよらなかったので、米穀通帳の事まで話は及びませんでした。
また、子供の頃からこれまでの人生で、お仕置きとか両親への反発とかで数日間、食事ぬきでいた経験に自信を持っていたので、シゲオには、多少の空腹や米調達に対する心配はありませんでした。

しかしです!
闇市などまともに値段を調べたことがなかったシゲオは、福井の闇米の価格を見て回り、驚きます。
「た!たっ高っ‼」
贅沢など思ってもいませんが、闇米だけで、稼ぎのほとんどを費やしても足りないくらいです。
食べない訳にいきませんから、すぐに、谷口さんに言われた通り、故郷の村役場へ、米穀通帳を発行してもらうよう郵便を送りました。

一般的な家庭用の米穀通帳は、通常一家に1冊とされており、松岡俊次の家では、俊次・ちか夫婦とシゲオを含む4人の子供の名前と米の配給量が記載されているものです。
シゲオからの米穀通帳発行の依頼郵便を受け取った村役場の人は、俊次・ちかの家までやって来て、通常は15歳の子供だけに米穀通帳を発行する事などしないことを伝えました。
そして、ちかに、これはどういう事情かと、尋ねました。

これをさかのぼること、5日前、ちかは、シゲオが残したメモ書き:「ひとはた上げて戻りますのでしばらく家出致します候」を見つけて以来、どこへ行ったやら検討もつかず、敗戦後の治安の悪い世の中で、死んでしまったりしないていないか、実は俊次と共に、夜も眠れないほど心配していたのです。
そこへやって来た村役場の人は、本当に良い知らせを持ってきたのでありました。シゲオの差出住所もわかり、元気で生存を確認すると、筋金入りの両親:俊次・ちかは、毅然と、「絶対に米穀通帳を発行しないでください。この子は家出中なので、もし発行すると戻って来ませんから。」と即答です。

福井市にいたシゲオは、故郷の村役場への郵便事情もわからず、まずは1週間後の給金日まで、家から持ち出したお金でなんとか食いつなごうと待つ計画でした。
仕事では、各工事現場へお使いに自転車で走ったり、事務所で雑務と掃除の傍ら、時々谷口さんに同行させてもらって、本人は、「今回の家出はうまくいった!少しずつ仕事を覚えて、立派な建設屋になるぞ!」と、満足かつ充実していました。

気になるのは、米穀通帳。
故郷の村役場へ発行依頼をして2週間以上経った頃、待ちに待ったシゲオの元に届いた故郷・田原村 村役場からの書面は、米穀通帳ではなく、「15歳の家出中の子供に、両親の許可もなく米穀通帳を発行しません」という内容のものでした。

…シゲオ、事務所の昼間というのに、あたりが真っ暗になり、身体から力が抜けていきました。
「ああ、またお父ちゃんとお母ちゃんにボクの夢を切り取られてしもうた…。配給米ですら食べられないんだったら、生きていけない…。」
そして3秒くらいの間、15歳の少年シゲオの頭の中で、様々な思いがめぐります。
「1人前になるとか、ひとはた上げると言ってココまでやってきたのも、所詮お父ちゃんの上着や家のお金を持ち出して今こうしているんやなぁ…。お父ちゃんもボクが死ぬか生きるか困るのわかってて配給米を止めたんや。それほどボクに帰ってきてほしいんやわなぁ…。家にはアニキも、三郎もいるのに、ボクがおらんとあかんってことか…。」

その日の夕方シゲオは、事務所に戻って来た谷口さんに、配給米を受け取れない事情を説明し、お世話になったお礼と暇乞いをしました。
谷口さんは、シゲオが両親に無断で家出をしてきたとは思っていなかったので、「それでは仕方ない。残念だけれど、早くご両親の元に帰ってあげなさい。」と快諾してれました。

師走12月になって風の冷たい中、シゲオは翌日には福井駅から故郷までの列車に乗りました。
満員の列車に立って揺られながらシゲオは思います。
結局、3週間程度の福井市での就職で、またしても、夢破れて山河あり!
気分的には荒涼とした感じでしたが、厳しい社会状況下の限られた条件の中で、自分なりに挑戦したという少しだけの充実感と 戦後も両親が存命で庇護されている自分という存在の“有り難さ”を感じる素直さも残っており、この運命を受け止めて自分は、さてこれから、どう生きていってやろうか!と、前向きに考えていたのです。

後日談ではありますが、

シゲオは、福井で、瞬間でシゲオを評価し、真摯に対応してくれた谷口さんの仕事ぶりは忘れたことがなく、あの事務所は今頃どうなっているかと気になっていました。
インターネットなど、まだない頃ですから、戦後の復興事業が一段落したら、あの事務所もなくなっているかもなぁ…。
という思いもありました。
あれから、20年くらいが過ぎた頃でしょうか…。
公開株式市場の情報で、あの福井市にあった事務所とは、準大手ゼネコンの、株式会社 熊谷組の発祥の地であることを知り、谷口さんは、戦後の㈱熊谷組の施工力を支えた立派な方だったんだと確信しました。
人生の出発点で、シゲオに大きな影響を与えた、人にやさしく温かい、頭脳明晰で即断即決、仕事のできる頼れる上司だったと改めて振り返り、懐かしく思いました。